http://d.hatena.ne.jp/nanashi_g/
お試しで使っていた上記ブログ、使い勝手が馴染みよかったので、このたび完全移行することにしました。 こちらのブログは今のところ残しておきますが、更新はとまります。特撮関連の記事は新しい方に移植したので、もしよろしければお運びくださいませ。 移転先では、現行特撮の感想などもアップしております。こちらでやってたよりは更新早いです。(苦笑) #
by nanashi_g
| 2006-02-21 13:33
| 徒然・日常
なんとなく、ブログを引越ししてみようかと思います。
新ブログはこちら。 http://d.hatena.ne.jp/nanashi_g/ まだまだ移行作業中でしばらくろくな記事もないかと思いますが、よろしければお運びくださいませ。 日記ネタは減って、特撮ネタメインになる予定。 今でも大して変わりませんが。(笑) #
by nanashi_g
| 2006-02-15 15:26
| 徒然・日常
そうか、7年前に隕石が落ちたってことは、1999年なんですね。
…ノストラダムスの恐怖の大王かよ…! 今まで気付かなかったのもアレだけど。あああ。 「ヒヒイロカネ」だの「タキオン粒子」だの『胡散臭くもよく聞くSF用語』的なものをやたらと散りばめてあるなぁ。その辺、白倉Pはフォークロア等にも詳しいと聞いた事があるので、他にも色々出てきそう。 #
by nanashi_g
| 2006-02-10 14:09
| 趣味・特撮
カブトはその名のとおり、甲虫をモチーフにしたライダーである。
↓ 甲虫ライダーといえば、ストロンガー。 ↓ ストロンガーといえばタックルは外せない。 ↓ タックルは天道虫がモチーフ。 ↓ 故に、カブトの主人公の名前は「天道」である。 …な~んてな…。 以下、仮説。 -------- 名前については、天道が自分で言っていた「天の道をゆき総てを司る」ってのが暗喩になってそうかな、と思ってます。つまり、名前の漢字や言葉の意味自体が、劇中の役割までも表現しているのではないかと。少なくとも、天道と加賀美についてはそうだろうと思います。 天道は自分で言っちゃってるので割愛するとして、「加賀美」は「鏡」なんでしょうね。天道を映す鏡です。 カブトに選ばれた天道と選ばれなかった加賀美。一人我が道を行く天道と、組織に所属する加賀美。対照的な位置に置かれた二人の立ち位置が、対照の像を結ぶ鏡と通じるものがあります。「総てを司る」天道に対して、加賀美が「鏡」の立ち位置でなく「新しいもの」となれるかどうか。 ここからグループ分けになるのですが、「天道」とその鏡である「加賀美」が「天(陽)」のグループ、そして「日下部ひより」「天道樹花」「岬祐月」「田所修一」「竹宮弓子」は「地」のグループになるのかなと。 おそらくマスクドライダーシステムを使えるのは「天(陽)」のグループになり、そうでない人間は「地」のグループになるのではないかと。 「天道」はそのまま「天(陽)」ですね。天道(てんとう)とは、日本における太陽神の意味もあるそうなので、太陽を意味するのかと。 「加賀美」は先に書いたとおり「鏡」ですから、太陽である天道を反射して擬似太陽を演じるということで「天(陽)」グループということですね。 次に「地」のグループ。 同じ「天道」の名字を持つ樹花は「樹」と「花」ですから、地上に根ざすもの。 「岬祐月」は、地面が海へ突出した突端ということで、これも地上のもの。 「田所修一」は「田」だし、「竹宮弓子」は「竹」という植物、そして「宮」=建物でやはり地上のものでしょう。 「日下部ひより」はちょっと微妙だと思っていて、「日」=陽が入っているので「天(陽)」グループかと思ったのですが、「日の下」だから、「地」グループかと。 名前の意味としては、「ひより」には「アシの茎の内側にある薄い皮」という意味もあるそうなので、植物属性でギリギリ地上かな。ただ、「ひより」が「日和」だとすると、「太陽と和するもの」ということで、「天」と「地」の掛け橋になるかも、という気はしています。 「岬祐月」も「月」ということで「天」側かとも思ったのですが、『「祐」は天の助けを意味している』そうなので、天の助けを受ける月ってのはやっぱり「地」側かな~と。それと、やっぱり太陽と月は同じ場所には居られないってことで。 また「岬」は「御先」とも置き換えが効き、「あちら」と「こちら」の境界線でもあるので、マスクドライダーシステム、ひいてはワームや隕石の謎に、「地」のグループの中でもっとも近づく者、という予想もしてみます。(これは穿ちすぎか?) さて、どんなもんでしょ。 #
by nanashi_g
| 2006-02-08 19:31
| 趣味・特撮
いい加減、響鬼カテゴリを作った方がいいんじゃねーかという気がしてきました。まあいいや。
『響鬼』が最終回に向けていろいろ盛り上がったり、サプライズがあったりした中で1、2を争ってビックリし、かつ納得したのが『ヒビキには師匠がいなかった』ということでした。 納得した理由については割愛しますが、更にそれとは別に、友人S氏からのこの言葉にものすごい天啓を受けました。 >ヒビキに師匠がいないことについては、弟子たちに父親がいないこととシンクロしました。 明日夢は両親の離婚という形で、現在傍に父親がいない状況で、京介は父親を火事で亡くしています。父親というのは、こと特撮ヒーロー番組においては、「乗り越えるべき壁」としての扱いをされる事が多く、その意味では明日夢も京介も『壁を乗り越えようとしても、乗り越えるべき壁がいない』状況として描かれています。この場合の「乗り越える」というのは、捕らわれているわだかまりを「乗り越える」ということでもあるのですが。 また、鬼の師弟関係というのは、トドロキとザンキを通して、やはり「師を乗り越えていくもの」として描かれています。鬼の師弟関係を擬似的な親子関係とするならば、師は『父親・父性』として置き換えることが可能かと思います。 そうすると、ヒビキ自身にも『父親』、つまり『乗り越えるべき壁』が不在ということになるのですね。 明日夢は父親が作りかけていた犬小屋を完成させることによって、父と高めあう道を見つけ、京介は鬼の力を得て人を助けるという道に進むことで、人助けの道で命を落とした父親に追いつくことができた。共に、父親という影を通して、自分が捕らわれていたものから抜け出し、一歩成長しています。 一方ヒビキはというと、ずっと拒否しつづけていた弟子を取り、また自らが続けてきた「鍛えている」背中を弟子たちに見せることによって、『師としては至らなかった(なろうともしていなかった)自分』を乗り越えているんですよ。これは、やはりヒビキにとって大きな成長といえるでしょう。 こうして考えると、太鼓師弟は揃って「父親越え」を果たしているわけで、『仮面ライダー響鬼』という物語は、少年の成長物語と銘打ちつつ、実際はヒーローであるヒビキ自身の成長さえ描いた、成長譚だったのだなと、感慨深く思ったりもします。 #
by nanashi_g
| 2006-02-08 15:11
| 趣味・特撮
|
|
ファン申請 |
||